われわれは自分の実力以下の職に就けば大物に見える可能性があるが、分の過ぎた 職に就くとしばしば小物に見える。
史上最高の毒舌家ラ・ロシュフコーの言葉である。皮肉な毒舌家といえども、その言葉は本質を突いている。教職という狭い世界のなかである程度の成功をおさめているからと言って、自分がなにか他人に影響を与えられる人物ででもあるかのように過信するのはあさましい。教職は社会全体から相対的に見れば、知的な職業でもなければ専門的な職業でもない。ましてや社会の優秀な階層が集まる職種でもない。ラ・ロシュフコーのこの言葉は私たちにそれを自覚させてくれる。
事実、新採用で赴任した最初の学校では仕事がうまくまわっていたのに、転勤した二校目の学校では学級崩壊を起こすという事例がよくある。四十代くらいになって、転勤を機に自身を失い、結果的に休職してしまうという例も多々見られる。どちらも子どもが変われば、地域が変わればどれだけ教育理念や教育手法を変えなければならないかということに無頓着だったことによって起こる。わずかばかりの成功を過信し、教育の神髄を得たような気になっている高飛車な人物に多く見られる事例だ。まさに「先生と呼ばれる馬鹿」がこうした不幸に見舞われる。
おまけにこうした教師たちは、学級崩壊の憂き目にあっても、なかなか自分の手法を変えようとはしない。かつての成功イメージが取り憑いてしまって、そこから離れられないのだ。「先生と呼ばれる馬鹿」病にひとたび感染してしまうと完全治癒は殊の外難しい。分の過ぎた職業どころか、同業同職種にスライドしただけなのにこの有り様である。われわれはほんとうは小物の集まりなのだ。
書店の教育書コーナーをにぎわす著者とて同様である。教育界では少しばかり名を馳せているものの、その実態は数万の市場において数千の売り上げに一喜一憂している小物にすぎないとも言える。狭い世界における、しかも閉じられた世界における成功など、自らを過信させるほどの価値などないのだ。
私は教師を貶めたいのではない。自分の仕事に対して、或いは自分自身に対して、ある意味、このくらい冷めた眼差しを向けていたほうが謙虚になれるよと言いたいのだ。「先生と呼ばれる馬鹿」に陥らないためにも、〈自分の分〉というものに自覚的であるべきだと言いたいのだ。
私も教師である。自分が子どもたちに与える影響を大きさを知っている。自分の指導が昨日したときの喜びもよく知っている。ときに子どもたちを囲い込みたくもなると、職員室で自分の正しさを声高に主張したくもなる。しかし、少なくとも私は、自分自身を高めること以上に、自分の勤務する学校を少しでも良い学校にすることを主眼に毎日を過ごしている。そのために同僚を大切にしたり、みんなが働きやすい環境をつくって間接的に子どもたちに還元したりということを日々考えている。そのために、ときには管理職と軋轢を起こすことにさえためらわない。
私は断言するが、「先生と呼ばれる馬鹿」は、自分のために仕事をしているからこそ陥る病である。教師は自己実現のためにある職業ではない。子どもを育ててなんぼ、子どもの活き活きとした姿があってなんぼの職業である。授業がなめらかに進んだり、集団を統率するスキルを身につけたり、或いは自分のやりたい教育手法を周囲と軋轢を起こしながらゴリ押ししたりしながら自己実現を図る職業ではないのだ。