ここでは、いじめ対応を例に考えてみよう。
いじめ事案が起こったとき、一般的に教師はいじめられた側に寄り添うことを基本とする。それは本人から訴えがあった場合でも目撃情報から事実が発覚した場合でも変わらない。そこで被害側から事情を聞き、どんな思いをしたかを聞き、教師はいじめられた子に共感する。その子の保護者にこれから加害側の指導をする旨を連絡して理解を求める。こうしていじめの指導が始まるはずだ。
最初に加害者とされる子ども(たち)を呼んで事情を聞く。まずはその子(たち)にいじめを認めさせようとする。とにかくこの子(たち)がいじめを認めないことには始まらない。逆に言えば、この子が認めればすんなり指導が進むが、認めなかった場合には指導に暗雲が立ちこめる。
いじめはあってはいけないし、絶対に認められない行為であると教師は考えている。最終的には加害側にもそういう指導をしようと思っている。子どもの側もそれがよくわかっているからこそ、なかなか認めない。「みんなでいじっていただけだ」「本人も楽しそうだったからあれはいじめではない」「そんなに嫌だったのなら言って欲しかった」といった、加害側の〈つもり〉を盾になかなか認めようとしない。なかでも教師を困惑させるのは、加害側の子が自分だって被害側の子にいじめられたことがある、これは仕返しだとフィフティフィフティを主張する場合である。仲の良い(少なくとも教師の側からはそう見える)小グループのなかでいじめられたと一人が訴えて場合に多い事例だ。
指導が長引くうちに、加害側の保護者からのクレームも来る。こうして多くのいじめ指導が、子どもだけでなく保護者をも巻き込んだ混沌に嵌まり込んでしまうわけだ。
しかし、実はこの展開は当然のことなのだ。①被害側に共感する、②加害側にいじめを認めさせる、③いじめは許されないと指導するという三段階で行われる指導のあり方は、実はこれがいじめ事案であるか否かの決定権を子どもの側が握っているからである。ここはまず、何を措いても〈起こった事実〉を把握しなければならない。それもできるだけ細かくである。いつ、どこで、だれが、だれに、何をしたのか、何を言ったのか、古馬の端々や声の大きさ、言葉とともに机や壁を叩いたとか椅子を蹴ったとか、そうしたことまで具体的に確認しなくてはならない。それも、被害者・加害者だけでなく、周りで見ていた子どもたちにもすべて確認しなければならない。更にはそれぞれの証言に矛盾があった場合には、一つ人つ確認し直して、嘘はもちろん、子どもたちの勘違いや忘れていたことまで明らかにしなければならない。そうしたやりとりのあと、目撃者も含めて関係の子ども全員が「うん。こういうことだった。」と言うような事実確認をしなくてはならないのだ。そして事実の全貌がわかった段階で、初めてそれがいじめ事案であるか否かを教師が判断する、という流れにもっていかなければならないのである。
ひと言でいうなら、〈事実確認〉においては、加害者側はもちろん、疎外者側の子にさえ、一切の「つもり」を訊いてはならない。何を考えたのか、どう思ったかは取り敢えず措いておいて、何が起こったかの全体像を具体的に明らかにすることが必要なのだ。教師はそれに専念しなければならないのだ。あくまで〈裁き〉はその後の話なのである。