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Channel: 裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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〈邪悪肯定論〉の補助線

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学校教育で〈後ろ向き〉な仕事の代表と言えば、なんといっても「いじめ対応」である。いじめはない方がいい。それはだれもが言う。でも、いじめゼロということが仮に実現したしとして、そのこと自体には何の意味もない。それはマイナスがゼロになることを意味するだけで、決してプラスの何かが産み出されるわけではないからだ。人間の目はマイナス事象に向く。そのマイナス事象をなくそうともする。それは仕方ない。しかし、教師たる者、どうせ某かの努力をするのならば、プラスを産み出したいとは思わないだろうか。 基本的にゼロ運動、撲滅運動が起こるのは、その事象のマイナス面が大きいからだ。その事象は忌み嫌われる「邪悪なもの」だ。だからこそ、その撲滅が望まれる。しかし、その「邪悪なもの」はなぜ世の中に存在するのだろうか。学校教育全体、社会全体としては確かに忌み嫌われるのかもしれないが、そのマイナス事象を望んでいる者もいる、必要としている者もいるのではないか。だからこそ、その事象は存在するのではないか。一度、そんなふうに思考してみるのはどうだろう。

例えば、一度、いじめを肯定的に考えてみるわけだ。いつこいようだが、いじめを肯定したいのではない。私が言いたいのは、現実的に有効な対応を編み出すためには何が必要か、というあくまで「思考の枠組み」の話である。

まず、いじめがいじめる側にとって心の中のモヤモヤやイライラを昇華させる、ある種の〈カタルシス機能〉をもっていると仮定してみよう。

前章で私はいじめが事実を確認を徹底すれば解決できると述べたが、もしも徹底した事実確認とその後の指導によって解決されたとしよう。しかし、その場合、いじめた側のモヤモヤやイライラの行き場はどうなるのだろう。それらはただ、行き場なく陰に籠もるしかないのではないか。もしかしたらいじめ指導は、そのいじめ事案が解決すれば終わりとするのではなく、教師が同時に、いじめる側のカタルシスの行き場にも配慮しなければならないものなのではないか。一度、「いじめ肯定論」を措定してみるだけで、こうした発想が生まれて来はしないだろうか。

いじめられる側をも考えてみよう。社会にはいじめがはびこっている。上級学校に進めば、或いは社会に出れば、年長者からさまざまな指導を受け、さまざまに落ち込む場合があり得る。今回、いじめ被害者として教師にフォローされた子どもは、いま確かにいじめの解決に安心している。だが、この子は今後、上級学校や社会に出てからそうした事案に自力で対処していけるのだろうか。とすれば、教師は今回のいじめが解決したから良しとするのではなく、辛い思いをしたのだからとこの子をフォローすることばかり考えるのではなく、将来この子がたくましく生きていけるようにとこの子を「強くする指導」にも目を向けるべきではないのか。もう一度言うが、一度、「いじめ肯定論」を措定してみるだけで、こうした発想が生まれて来はしないだろうか。

もちろん、教師がこうした発想でものを考えていることは、子どもにも保護者にも言ってはいけない。もしも口にしたらクレームを受ける程度では済まないかもしれない。ただ一度こうした枠組みで考えてみることによって、いじめ指導の在り方がただ①そのいじめ事案を解決することのみに止まらず、②いじめた側のバイタリティの行き先を用意することと③いじめられた側を強くする指導を用意することとの三つをセットで考えられるようになるとしたら、この思考の枠組みはとても有効なのだといえないか。

私はこうした「邪悪なもの」の肯定論を想定して、自らに〈見えないもの〉を潜在化させようとする思考の営みを「〈邪悪肯定論〉の補助線を引く」という言い方をしている。


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