「適切にいじられる」という言葉を私に教えてくれたのは、京都橘大学の池田修先生であったように思います。私は聞いた瞬間に膝を打った記憶があります。適切にいじられる後輩、適切にいじる先輩。適切にいじられる子ども、適切にいじる先生。こうした人間関係には不安を見出せません。もちろんただいじりいじられるというだけでなく、「適切に」ということが肝腎です。
「いじめ」と「いじり」の関係がよく問題になります。これだけ「いじめ」が問題視される昨今ですから、学校現場では「いじり」もどこかネガティヴなイメージで捉えられがちです。私は「いじめ」は相手が嫌いだから行うもの、「いじり」は相手が好きで潤滑油として行われるものと考えていますが、いくら相手に好印象を抱いていたとしても度を過ぎた「いじり」や集団化した「いじり」は「いじめ」と見分けがつかなくなります。そこで「適切な」という言葉がつくわけですね。
さて、〈いじりの適切さ〉ということについて考えてみましょう。どのような「いじり」であれば〈適切〉で、どのような「いじり」であれば〈適切〉でないのでしょうか。
しかしそれは一概には言えません。人間関係によるとしか言いようがないのです。
こう考えてみましょう。
職場では毎年、忘年会が開かれます。歓迎会や送別会は転勤者のスピーチが主ですが、忘年会にはそういう主役がいませんので、余興としてゲームが行われることが多いと思います。学年対抗だったりテーブル対抗だったりで行うあれですね。
そういうゲームには罰ゲームがつきものです。一問間違うごとにすずらんテープでつくったかつらを被らされたり、鼻眼鏡をかけさせられたり、例えばそういう類のものです。 職員室が仲が悪い場合、こうした罰ゲームを課されると「なんで私がそんな恥ずかしい格好しなくちゃなんないの」と否定的な気持ちになります。「そういう罰ゲームがあるから忘年会は嫌いだ」ということにもなります。しかし、職員室の仲がいい場合には、みんなの前でその程度の恥をかくことなど、なんのことはないと簡単にできてしまいます。人は仲がいい人たちの前ではそんな程度の恥をかくことくらいはなんでもないわけです。ちょっとくらい恥をかく程度のことなら、その場の雰囲気を優先するものだということもできますし、むしろみんなで大笑いしているだけでそれを恥と感じないことさえ少なくありません。
三月、私は最後の学活でフルーツバスケットをすることが多いのですが、鬼になるのが三階目になったら罰ゲームというルールで行います。罰ゲームはみんなの前でやるのが恥ずかしいようなものを設定します。「よし!次の罰ゲームは教卓の上で尻文字で自分の名前を書く!」とか、「じゃあ、次の罰ゲームはみんなの真ん中で踊りながらハトぽっぽ歌う!」とか、そんなくだらないけれどちょっと恥ずかしいというタイプの罰ゲームを設定するわけです。
学級づくりが成功していると、こうした罰ゲームをやんちゃ系の男の子はもちろん、大人しめの女の子でさえゲラゲラ笑いながらなんなくやってしまいます。逆に学級づくりがうまくいっていないとこうした罰ゲームは危険を伴います。保護者クレームにつながることさえあるかもしれません。しかし、これもやはり、その集団が仲がいいかそうでないかに規定されているわけです。
基本的に先輩教師がいじってきた場合には、まずは受け入れてみることをお勧めします。それが自分を好ましく思ってくれて発せられているのかそうでないかなどは、人間なら一瞬で見抜けるものです。また、〈適切ないじり〉をしている先輩教師は、後輩にいじられることも厭わない傾向にあります。職場の人間関係において、適度ないじりいじられる関係があるということは、職場を明るくし、人間関係を充実させるものです。
「適切にいじられる人」でありたいものです。