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Channel: 裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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更新し続けること

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ただし、〈六割主義〉で仕事に向かい、余力を自らの力量を高めることに向けるというスタンスで臨むとき、一つだけ肝に銘ずべきことがある。それは、「わかった気にならない」ということだ。

成長にとって最も足枷となるのは「慢心」である。人は新しいことを知ったとき、新しい世界が見えたとき、その喜びに慢心に陥りやすい。わかった気になり、他人の意見を軽視し、自らを堕落させてしまう。成長を欲する者は自らの発見に〈健全な猜疑心〉を抱かねばならない。ほんとうにはわかっていないことを納得した気持ちにならないようにする努力を自覚的に行われなければならない。メルロ・ポンティが「哲学とは自分自身の根拠が常に更新されてゆく経験である」と言ったが、その意味では、仕事上の成長も「哲学する者」こそが勝者となる。

自分自身の目で見、自分自身の手で触れ、自分自身の頭で考える習慣を身につけた者は毎日が発見の連続となる。毎日が発見の喜びに包まれる。自ら発見したものはそれを信じる気持ちも強くなる。その発見を絶対視したくなる。しかし、発見したものがスキルであろうと価値であろうと、それが絶対であることはあり得ない。世の中に万能なスキルはないし、絶対的な価値も存在しないのである。

むしろ、スキルは用いられる状況との相関で機能したりしなかったりするところにこそ本質があり、価値は状況によって流動することにこそ本質がある。スキルを用いるときに大切なのは状況を見極めることであり、価値観を形成するうえで大切なのは常に状況との遠近法でその価値を捉えることができるか否かなのだ。

しかし、人間は自らの発見に固執する生き物である。その発見には、発見されたものの価値以上の価値を付与してしまいがちである。そのバイアスを冷静に見極めなければならない。少なくとも冷静に見極めようとする志向性をもたなければならない。自分の発見には価値がある、そう考えたい自分をこそ疑わねばならない。そういう浮ついた感覚にこそ〈健全な猜疑心〉を向けなければならないのだ。

また、自ら発見したスキルや価値は、ときに周りの称賛を受ける場合がある。「先生の考えた方法はすごい」「先生の開発したシステムはすごい」「先生に僕はいっぱい学ばせていただきました」などなど、自分を慢心に陥らせる誘惑に取り囲まれることさえ珍しくない。しかし、こうした称賛にも〈健全な猜疑心〉は向けられるべきなのである。

何らかのスキルや価値を開発することは、然るべきときにそれを破壊し新たに創造するためにこそ行われるものなのだ、すべてのスキルも価値観も常に更新されることにこそ意義がある、そのくらいの構えでいたいものである。一つの場所に留まることは、力量を高めるうえではむしろ敵なのだ。


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