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Channel: 裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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学力を保障せよ!

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今日は勤務校の公開研究会である。この日のために、九年の先生方と授業案の検討を積み重ねてきた。いったい何十時間をこの1時間のために費やしてきたのだろうか。

今日の1時間は作品から読み取ったことをグループごとに発表する1時間である。そのための言語活動として「劇化」を選んだ。子どもたちはよく教師の意図を汲み取り、自分たちなりによく練られたシナリオを書き、練習に取り組んできた。昨日のリハーサルでは、校長先生もニコニコしながら見守ってくれていた。あとは子どもたちが練習の成果を発揮してくれることを望むだけだ。今日は子どもたちに任せよう。

こうして研究授業が始まる。

「では、一班から発表してもらいましょう。」

子どもたちには少し緊張が見られたものの、それはもう活き活きとした発表が展開された。研究協議では助言者の先生に褒められた。参加者からも「普段の先生と子どもたちとの良い関係が見えてくる、とても良い授業でした」と絶賛された。一緒に苦労してきた学年の先生方ともおいしいお酒を酌み交わした。授業者としても頑張った甲斐があったというものである……。

さて、この授業は国語の授業と言えるのでしょうか。この1時間で、子どもたちにはどんな言語能力がついたと言えるのでしょうか。

「劇化」が悪いというのではありません。それに類する活動型の授業が悪いというのでもありません。その言語活動を何のために、どんな言語能力に培うことを目的に設定したのか、その目的と評価の観点が明確なのかと問うているのです。

そもそも、この授業の評価の観点が、「子どもたちが活き活きと自分たちの劇に取り組むこと」に設定されていないでしょうか。だとしたら、学習発表会の劇と何が違うのでしょう。国語の授業ではなく、特別活動になってしまっているのではないでしょうか。

目標が「本文から読み取ったことにふさわしいシナリオを書くこと」、つまり、「教材本文の再構成」にあるのなら、その「再構成」が相応しいかどうかが事前に検討されなければなりません。「登場人物の心情を自分なりに表現できること」が目標なら、子どもたちに自らの演技を自己評価させて内省させたり、同じ登場人物を演じた者同士でどんな演技がよりその人物の心情を表現できるのか等を話し合うといった活動が考えられるでしょう。いずれにしても、その活動と教材本文の読み取りとを照合して、国語学力として抽象化して捉えさせる営みが必要なのではないでしょうか。

学習活動をただ発表の場として設定するだけでは、国語学力を保障しているとは言えないのです。


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